あらためて慢心について考える

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いま、JICA、国際協力機構のプロジェクトに参加しています。

プロジェクト名は、「パキスタン国プライマリーケアにおける母子保健の継続ケア強化プロジェクト」といいいます。

母子保健に関するということで、お声をかけてもらったのです。

以前から一緒に仕事をさせていただいているICネットというコンサルタント会社の方と一緒にお仕事をしているのです。このICネットの池田さんと佐藤さんとは、もう10年ほど前にホンジュラスで一緒に仕事した時からのご縁です。

今回はパキスタンの北西部、ハイバル·パフトゥンハー州というところでの事業になります。

支援事業といっても、このプロジェクトはものを寄付したり建物を建てたりというものとは少し違って、技術移転をその主目的としているようです。

しかし、JICAと私とはどうも相性が悪いようで、以前からJICAの仕事には携わる機会をいただくことが多いのですが、その度にプロジェクトの内容に文句を言わずにはいられないのです。

JICAさんやICネットさんからしたら相当うるさい存在だと思います。そんな私になぜお声掛けしてくださるのか、いまでも不思議に思っております。

さて、今回のプロジェクトも同様に、私にとってはまったく納得のいかない内容なのです。

たとえば、いつも問題になるのは、胎児モニターと超音波診断装置(エコー)をどうするか、です。

他に設備を寄付することを目的とする無償協力があります。そこでは、何の疑いもなく、胎児モニターとエコーを導入することが母子保健の活動だと思っているようであります。

私など、アフリカでは胎児モニターはいっさい使いませんでした。エコーは確かに便利ですが、それは使い方がわかっているからです。まったく使い方をしらない人に一から教えて、使えるようにするのは、相当時間がかかります。

おそらくプロジェクトに関係する人たちは、それらの診断機器を導入するということの意味がわかっていない。

胎児モニターを導入することの意味は、胎児適応で帝王切開をする、ということです。電気も水も薬も十分でない。手術するのが簡単にできない所で、胎児の命と母体の命を天秤にかけた時、母体の命を危険にさらしてでも胎児を助けにいく、という意味です。プロジェクトサイトの医療は、それだけの準備ができているのかを十分に考えているのかどうか、とても疑問に思うのです。

エコーを導入しても、周産期予後は変わらない、というのは有名な話です。かえってエコーなんて使うと知らなくていいことまでわかってしまう。胎児奇形を見つけたいのでしょうか。田舎の妊婦の赤ちゃんに心臓疾患が見つかった時、救命できる病院があったとして、その病院で治療できるだけの支援方法が、いまのパキスタンの社会制度で可能なのでしょうか。

そんなことも知らずに、機械だけを導入して使い方の研修をして、それで人助けをしたつもりになっている人たちをみると、どうしても批判したくなってしまうわけです。

利他は難しい。観音様が第一に言われたことは、智慧でした。大慈大悲の観音様はどんな人でも助けてくれます。しかし、助ける時に重要なのは、まず一番に、相手のことを知ることだ、とおっしゃっています。

今回のプロジェクトではベースライン調査なるものを実施しています。地元の調査会社と契約して、医療施設で働く人や患者さんたちにインタビューするという内容です。

しかし、ちょっと人にインタビューさせてできあがったレポートを読んだからといって、相手のことをわかったと言えるでしょうか。

などと、いろいろ考えてしまうと、どうしても私の言っていることのほうが正しい、と思ってしまうわけです。

ところが、それは慢心なのでしょう。青山老師が言われたとおり、「私のいまの経験を尺度として相手をはかり、この尺度からはずれると相手のほうが間違っていると責めたくなる」のです。

青山俊薫老師の著書(「道はるかなりとも」佼成出版社)から引用いたします。

老師が入院された時にもらったプリンを、友達が美味しそうに食べるのをみて、次のようなことをお話しくださっています。

「何を食べてもまずい。まずい。

今、私が何を食べてもまずいのだから、友も食べてもまずいはず。

それをうまそうに食べているとけしからんような気がしてくる。

要するに私のいまの経験を尺度として相手をはかり、この尺度からはずれると相手のほうが間違っていると責めたくなる。十人十色の人生を歩んでいる限りひつつのことにたいしても十人といろのものの見方が生まれるのは当たり前なのに、一人ひとり自分の見方が絶対に正しいと思い、その尺度で相手をはかり、くい違うと「間違っているのは私ではなくて相手だ」と思うから、そこに争いが生じる。

もったいぶってマルクス主義だ、資本主義だなどといったって、少しもこの域をでていない。これが凡夫の姿であり、私の姿であり、世の中の姿なのである。」

慢心しているとどうしても自分のほうが正しいと思えてくる。

いまも書きながら、やっぱり俺の方が正しいのでは、と思っているのです笑

世の中の不公平をなんとかしようと革命まで起こしたマルクス主義ですら、その域をでていないのですから、私の小さな主張なんて、当然取るに足らないに決まっています。

内山興正老師の本(「観音経·十句観音経を味わう」大方輪閣)にもこんな話がでていました。

「あるところに持戒堅固に修行するぼさんがおったがの。この坊さんは、いまどき自分ほど持戒堅固なものはあるまいと内心充分おうところがあって、それでどうも仲間の修行者たちが戒律をおろそかにすることに対して目がついて仕様がない。『それそれまたあいつは戒律をおかした』『またあれは仏の教えにそむいた』 かれはこれを別に口に出していったことはなく、ただ心の中でおもっていただけじゃったがの。彼はその身が終わってから、生生世世修羅道の身に堕したということじゃ」

おもっただけで修羅道に堕ちてしまうのですから、こんな文章にしている時点で、私の修羅道行きは決定しているのかもしれません。。

主張するべきは主張して、ただ謙虚に、相手も自分が正しいと思っているという事実をしっかり認識しておくことが大切だと思うわけです。

自分から声を荒げて批判しない。

聞かれたら、意見を述べましょう。

それまでは与えられた仕事を誠心誠意遂行するのみです。

理をといて説明しても、相手から同意を得られない、あるいは同意を得ても結果的に何も変わらない場合はどうするのか。

だまって耐えるしかありません。自分のやるべきことをするだけです。

仏様の智慧をうることはかくも難しいことか。

慢心を抑えるということはかくも難しいことか。

日々、これ修行なのだと改めて思うのです。

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