先日、FBをつらつらと眺めていたら、東洋経済オンラインの記事が宣伝で流れてきました。
それは、人生相談あるいは進路相談のようなコラムで、作家であり実業家である人が寄せられる悩みに答えていく、というものでした。
私が目にしたのは、50代後半の男性からの相談でした。私も悩める50代の一人なので、どうしても気になってしまい、普段はあまり興味のない経済雑誌のサイトをのぞいてみたのでした。
その男性の悩みは、次のようなものでした。
1流大学を出て、1流会社に就職し30年以上勤め上げ、家庭も持ち、幸せに過ごしてきた人生だったようです。しかし、周囲を見れば同じような会社人生を歩んできた人が多く、自分の将来がわかってしまった。これでよかったのか、と自分の歩んできた人生に疑問が生じてしまった、というような内容だったと思います。
これは質問された方もさぞお困りだったろうと推察しました。
50代の不安は確かに共感するところではありますが、なんとも回答しずらい質問です。
結局のところ、趣味をはじめましょう、という無難な回答に落ち着いていたように記憶しております。
この男性はなぜ悩んでいたのでしょうか。
男性の人生は、いわゆる勝ち組の人生です。確かに世間の先行きは不透明です。ウクライナ戦争あり、台湾問題あり、退職金課税問題あり。しかし、バブル世代はぎりぎり逃げ切れる世代です。退職金ももらえるでしょうし、年金ももらえるでしょう。何が不安なのか。
この男性がいまになって、自分の人生に物足りなさを感じているのは、おそらく「愚痴」が原因だと思われるのです。
「愚痴」とは、グチを言うの愚痴ではありません。仏教で言うところの三毒の一つの愚痴です。
何事も自分に関係ないと言って、知ろうとも、関わろうともしない、そういう意味の愚痴です。
安定した企業で働き、幸せな家庭を築き、何事もなくいままで生きてきた。
何事もなかったのは、自分自身のことだけを優先して生きてきたからにすぎないのです。
自分と、あるいは家族のことだけを考えて生きてきて、50歳も半ばを超えて今この男性が思うのは、虚しさだけでしょう。
人間は、誰かのために生きることを喜ぶことができる。この本来誰にでも備わっている心のことを、ある禅宗の偉いお坊さんは、「仏心」と呼んでおられました。
そして、その本来持っている思いやりの心が発現したときが、人間が生きていることを実感するときなのでは、と思うのです。
果たして、この男性にはそういう瞬間があったのでしょうか。
おそらくあったのではと思うのです。しかし、余計なことをして会社での出世が遅れてしまうだとか、あるいは家族がいるから無理だとか、いろんな理由をつけて、その心が現れてくるのを無意識に抑えてしまっていたのでは、と思うのです。
そうでなければ、30年以上も無事に過ごせるわけがないのです。
この男性がしなければならないのは、無条件で誰かのために生きてみる、ということでしょう。
自分のためでなく、家族のためでもなく、まったく知らない人のために生きてみる。
それはもしかしたら、家族に反対されるかもしれません。
いまの仕事と両立できないかもれません。
見返りを求めず、犠牲を払って、誰かのために自分の時間と資産を使ってみる。
もしボランティアをやるなら、誰からもお礼を言われない、だれも気づかないような仕事をやってみることです。
誰かに感謝されるという見返りを求めてはいけません。
感謝されるのは気持ちいいことですが、そんなことは二の次です。
無心で誰かのために働いている、その事実だけが重要なのです。
さぁ、はたしてこの男性がこのアドバイスを受け取ったら、なんて答えたでしょうか。
きっと、「余計なお世話」と言われて終わりですね笑
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